父の日におもう
父の日に思ったこと
この春、つまらないことで父ともめた。
「今やろうと思ったのに言うんだもんなぁ」的な全くもって、くだらないこと。でも、なぜか今回とてもその言葉が、こたえた。傷ついた。私だって努力してるのに、って思ったからかな。「そう、そういうところ。人のさわって欲しくないところを嫌な言葉でぐさりとやる、昔からそうだった。」思わず、悔し涙がでた。こんないい年してても。
小さいころから、「まったく、お前はママの子分で油断ならん」などとからかわれてきた。それほど私と母は距離が近く、父との距離が非常に遠かった気がする。それでさみしかったわけでは全くなく、ひどいけど、はっきりいってどうでもよかったのかも。母ととても楽しかったから。父が何か言ってくる時は、おこごとで、理屈づめ。私のことなら「全部手にとるようにわかる」と母はいい、「お前は何を考えているのかわからない」とよく父は言っていた。きっと、今でもそう。「こんなにわかりやすいのにねぇ」と、母と私は首をかしげる。
まじめで働き者で心配性。いつも最悪の状態を想定して、万端の準備を整える。20年ほど前、母と初めてふたりだけでヨーロッパにいくことにしたときも、父は起こりうる恐ろしいありとあらゆることを想定し、それから身を守るための注意事項「、、、しないこと」を、何十か条も紙に赤ペンで書いて私たちに読ませた。「ま、このようなことに十分留意して、楽しんでこい」みたいなことでまとめてあったけど、「こんなもん読んだ後に楽しめるかいっ!!」
読み終わる頃には、母娘ともにげっそり。げんなり。楽しく浮かれた気分はすっかりしおれた状態で、旅立たねばならなかった。
素直じゃないから、照れるから、父の口から出てくる言葉は「嫌み」の固まりになる。10年以上前に脳梗塞になり今は体の半分が動きにくい。しかし頭はまだまだ冴え渡り、体が動きにくいぶん、口の達者さ、嫌みのシャープさも、さらに磨きがかかり、冴え渡る。ああしてくれない、これが嫌も増える。良かれと思っていうまわりの忠告も聞かない、ますますうちうるさい頑固親父化している。
母は、父の介護に追われる日々で、自由がない。こまごまと世話をしている母に対して、世代的なこともあって、「ありがとう」「おいしいね」なああああああんてこと、口がさけてもいえない。口をあければ、でてくるのは「嫌みか文句」そんな人を相手に毎日ご飯をつくったりたくさんの洗濯物をしている母。元祖ママの子分としては、それも腹がたつ。「パパ、感謝の気持ちを忘れず!」などとついつい言ってしまう。
それにしても、この春の父の嫌みの一言はなぜそんなにこたえたんだろ。
いろいろ考えた。おそらく「どうでもいい」といいながら、もしかしたら私には父にみとめてもらいたいと思う気持ちがあるんじゃないかと、今回初めて気が付いた。びっくりした。そしてまた悔しくなった。こんな年になってまで。思えば、子供のときに父に言われた言葉を、「ふん」といいながら実はよく聞いていて、無意識のうちに私の中ですごくそれが大事な価値にしてしまっていて、それに届かない自分を責めて来たんじゃないか。ある分野においてもっている「自分を責める」気持ちの根源は、「この親父だったかぁ!!!!」と、気がついて、また腹がたった。
その数日後、まゆともチャンネルでインタビューさせていただいた入江富美子さんのへそ道集中合宿@湯の里(和歌山にある奇跡の水と言われている温泉)に参加させてもらうことになった。「へそ道」というくらいだから、その合宿セミナーの中には、へそでつながる親、祖先、その先のおおもと、、へとつながっていくことを嫌でも感じる要素がたくさんでてきた。その中で当然父のこともおもう。
集中合宿一日めの夜、心の浄化効果もあるという、湯の里の温泉に皆で入り、いい気持ちで「みそぎ」までできてしまうなんていいねえとか言いながら、初対面のセミナー仲間や入江富美子さんと温泉につかり、わいわい裸の付き合いをしていた時に、ちょっと聞いてみた。
「ふうちゃん。どう思われます?実は、父と、こんなことがあって、もう私としては一回、ちゃんと本人にぶつかってみようかとおもう気持ちもあれば、そんな年おいた親を今更問いたださなくてもこちらが一歩大人になって水に流せばいいじゃないかという気持ちもあり、どっちにしようか決められないんです。へそ道的にはご意見ありますか?」と。
すると入江富美子さんは、
「別に今回でなくてもいいのだけれど、へそに、『近いうちに本当の感謝を体験する』って宣言したらいいよ。へそは、宣言したことは必ず体験するようになってるから」
と、いうような摩訶不思議なことをおっしゃった。予想外の答であてがはずれもしたし、ちょっとムッともした。わたしはけっこう感謝ができる方の人間だとうぬぼれてたし、そこそこ親孝行だとも思ってるし、まるで私の感謝が足りないようなことをおっしゃるのはちょっと、、、」と。
それこそ私にとっては表と裏がひっくり帰るような体験となったへそ道合宿も終わり、皆と別れ、和歌山から神戸の家に帰る電車の中でまた考えた。父とのことはどうしようかな。もうどうでもいい気もするけど。それにしても入江さんのおっしゃる「本当の感謝」って、、、どういう意味だったんだろう。
「へそ道」というくらいだから、それはへそのうと深く関係がある。生物学的には、父とへそのうでつながっていたわけではないけれど、縁あって親子でいるそのつながり、父がいなければ私も生まれてなかったという変えがたい事実を、改めて、、、というか、正直いってはじめてちゃんと見つめたような気がする。
今わたしがNYなんぞにすみ、全部自分でやってきたみたいな大きな顔して、自分磨きにいそしんでるような気になって毎日を過ごせるのも、父がまじめにこつこつ働いてくれたから。自分磨きなんてチャラチャラしたことを考える余裕も暇もない時代に、毎日をまじめに生きてきてくれたから。というか、それより前に、そもそも私という命を母と一緒に生み出してくれたから。
いつも自分の子供には、「大きくなってどんなにママをばかにしたくなっても、ママがいなかったらボクは生まれてないんだから、命をつないだという意味において、尊敬しなさい、えっへん。」と言い聞かせてある。でも自分は、自分の命をつないでくれた人への特に父への思いが薄かった気がする。
今どんな気持ちでいるんだろう。どんな人生だったと自分で思っているんだろう。もし家族がいなかったらやってみたかったこととかあったんだろうか。何を考えて毎日仕事に向かってたんだろう。「数字を見てるとスカっとする」と不思議なことを言い、倒れてからも80をすぎてもまだほそぼそと、ほとんど趣味の域で会計の仕事をしていた。活動的だった人が体の自由を奪われて外にも勝手にでていけない生活がもう10年以上も続いている。楽しみはネットで囲碁対決するくらい。たまにかえってくる娘には「ママはパパのためにあんなに毎日やってるのに、、、パパは感謝の気持ちがたらない」と偉そうに言われて。
娘時代をふりかえると、本当に時代錯誤的、化石的に厳しい父で実に窮屈だった。「かたぎ」の娘が知り合いも全くいない、危険人がたくさんいそうな放送の世界なんかに勝手に入ってしまって、それはそれは心配で心配でたまらなかったんだろうと思う。 間違わないように、傷つかないように、先まわりして心配して心配してうるさくいう。不器用だから若い娘が素直に聞けるようには言葉をつむげず、出てくる言葉は注意事項か嫌みの山積み。ましてや、照れくさい不器用な性分だから。嫌みや小言とその向こうに溢れていた気持ち。改めて考えたらいたいほどわかる。でも、今まで「もーうるさい」が先にたって、ちゃんとはそこへ思いをはせたことさえなかったような気がする。
あまりたくさんの父とのスペシャルな思い出があるわけではないのだけれど、それでもそれだけに鮮明に覚えている場面が次から次へとでてきた。
私が育てていた青虫のエサのカキツバタの葉をとってくるのを忘れた時、父が夜にバスにのってとりにいってくれたこと
母に叱られて表に出されたて、そのままこれ幸いと遊びに行くという謀反を試みたとき、暮れなずむ空のしただんだん心細くなっていた私を、捜して見つけてくれたこと。
私がひろってきた犬のために大きな犬小屋をつくってくれたこと
夏休みの宿題工作を一緒につくってくれたこと
帰りが遅くなった娘のためにゴルフのクラブを振り回しながら、駅まで迎えに来てくれたこと。
阪神大震災後、「年老いてきた親も心配だからこれを機会に日本へ帰ろうか」ともらした時、本当はちょうど私のNY生活の行き詰まり期で、地震を言い訳にすごすご帰ろうとしていた本心を見透かした父は、「お前はNYで日本にいたときと同じくらいになるまでガンバルっていったぞ。そう書いてきた手紙持ってるぞ。」と、一喝した。でも、出発の日玄関で、まとまったお金の入った封筒をくれた。「本当に辛かったらいつでも帰ってきてええんやから」とぼそぼそっと言いながら。天の邪鬼ではなく、でもそう言われたからこそ、もう一度NYで、本気で一からやり直そうと決心がついて今がある。もっと、もっと。
不覚にもJR神戸線の中で、何度もこっそり涙を拭うはめになってしまった。
「感謝の気持ちの足りないくそじじい」と思っていたのに、感謝が足りないのは私のほうだったってことで。あらま。
家に着くころには「あの、おやじ、一回ちょっとちゃんと言ってやろう」などという気持ちはすでにどこかへ行ってしまい、数日前のできごとなんてどうでもよくなっていた。でも家に帰ってみると、どうも父の様子が少々おかしい。どうも何か言いたそうな、そのタイミングを伺っているような妙な雰囲気を醸し出している。もしかしたら私の合宿中に女性陣(母と姉)に言われたのかもしれない。しばらくして父は言った。
「なんか、嫌な思いさせたらしいな」
やっぱり。もういいんだけどなー。
でもその言い方が軽快だったので、私も、あくまで済んだ話としておもしろおかしくあくまで軽快にこちらの気持ちを伝えた。父もそれを、あはははーとか笑いながら(笑うな、こっちはマジで傷ついたんだからとか思いながら)聞き、何のわだかまりも緊張感もなく話は終わり、最後に父は「そんな思いさせて悪かったな」と言った。
これはもう明日は大雨だぜ。と言いたくなるほど父としては99%譲歩という快挙だったので、一種の感慨をもってその夜はねた。でも私はどうもすっきりしなかった。何かまだ100%燃焼してないというか、何かが欠けていた。そのまま寝たけれど、目がさめたらNYへ戻るため空港へ向かう出発の朝で、まだ私は悶々と焦っていた。空港に向かうまであと数分。今度いつ会えるか、いや会えるかどうかも正直わからないといつも思う。
ずっと、親には人並みに十分感謝しているつもりでいた。
いや、もちろん感謝してたし、日々の生活の中でたくさんの「ありがとう」は言ってきた。でも、本当の本当に、ちゃんと親をみて、その存在に感謝してたか。
嫌なこと、厳しいことを言う、その向こうにある気持ちを思ったことがあったか。
ましてや、ほんとうの「ありがとう」を本人にちゃんと伝えたことが一度でもあったか。
そう、一度だけ。結婚式の前の日。おきまりの感謝の言葉を言っただけ。
礼を言ってもらうためにやるわけじゃないけど、でも親が子供に注ぐ思いの量に比べて、それはあまりにも不公平。まちがってる。今こそ、恥ずかしいけど言葉にしよう。恥ずかしいよ、照れくさいよ、でも今なら、この出発前のどさくさにまぎれて「食い逃げ」ならぬ「いい逃げ」ができる。でも、いつ、どうやって、何て?
いよいよ玄関で、「じゃあ、またね」言うときがきた。
半分アメリカ人の小5息子は、なぜかおじいちゃんが大好きで、何のてらいもなくハグをして、「おじいちゃん、ありがと、またね」と言ってる。羨ましい自然さ。よし、今だ!流れにのろう。おおげさにふざけて「あ〜ら、じゃあ私もついでに、ハグハグぅ〜」と少しかがんで、車いすの父をハグした。からだがやけに硬かった。
今だ、自分!言うんだ!
「ありがとう。私をつくって育ててくれてありがとう。。。ほんとに、、、感謝してるから。」
父は、照れくささから、「やめろ」とか「あほか」とか言うかなという不安もあった。手放しで心を開いた時の相手の反応は怖いもの。でも父はつきとばすでも、嫌みを言うでもなく、それこそ満面の笑顔でにっこにっこと、うなずきながら笑った。すごくすごくいい笑顔だった。
ドラマならここで終わるのだけれど、現実は、、、まだまだありがたいことに父は元気であり、もっと元気でいて欲しいし、これからも何度も会いたいと思っている。きっとますます嫌み士の腕はあがり、今度あったらまた私たちはそれぞれに、普段の生活の超くだらないことをめぐって、「まったくもぉ〜」とまた腹をたてるんだろう。でも、たとえ半分以上自分のためだったとしても、元気なうちに一度でもちゃんと伝えられたこと、そして父のあんな笑顔をみれたこと。
「本当の感謝」の意味がほんの少しわかったような気がする。
Happy Father’s Day!